A-company

何事も前向きに。人生はアップデート。

この喜びを忘れずに。

どんな仕事にも、悪い時と、良い時がある。

 

それでも、攻める気持ちを忘れたらダメだ。

 

苦しい時こそ、火中の栗を拾うつもりが、実は良い結果を生んだりする。

 

今日まさにそう感じた。

 

目の前の仕事に忙殺されている中、歯を食いしばってチャレンジすると、意外にもポジティブな結果が返ってくる。

 

それが不思議と次なるモチベーションになる。

 

重かった頭がスッと立ち上がる感覚になる。

 

この気持ちを、絶対に忘れない。

心が重いときは外に出す

心が重いときは外に出す。

文字にすると当たり前のように感じるがこれがなかなかに難しい。

 

吐き出すことが迷惑ではないかなとか考え出すともう終わり。

 

そのうちどんどん、どんどんと心にちり積もっていって

最終的には朝、起きれなくなる。

 

そうなる前に、どんな形でもいいから身体の外に出す。

 

一番効果のあるのは誰かに話すこと。

 

相手に聞いてもらって、そのことで相手が話すことを聞いて、

それを繰り返すうちに自然と心に積もったチリが消えていく。

 

この感覚は本当に不思議だといつも感じる。

 

さっきまで眠くて起きれないほどの倦怠感が嘘のように消えていく。

 

だからカウンセラーや精神科医という生業があるんだろうとその度に感じる。

 

心の重たい原因を自分の中で飼い続けても良いことがないことは、少なくとも私の実体験では証明済。

 

抱えている人はどんな形でも良いから、自分の外へ出すことを最優先に考えてほしい。

理不尽。

それは道理に合わないこと。

あるいは矛盾していること。

そして、筋が通らないこと。

 

世の中はそんなことばかりだ。

 

タチが悪いのは、その被害を被るのは罪のない人たちだ。

 

理不尽は、罪深い者たちにとってこの上ない武器になりうる。

 

その鋭い刃で傷つくのはいつも弱者だ。

 

なぜ。

 

どうして神様はそんな武器を正しい人のために使わせてくれないのか。

 

しかし、そんな刃になぞ負けたくない。

 

屈したくない。

 

全ては自分の幸せを掴むために。

 

立ち止まらない。

 

 

仲間のために命をかける

今日はずっと気になっていた長篠城址を見に行った。

 

私が唯一見てるドラマである大河「どうする家康」の舞台の一つであるが、同県に住んでいるとは言えこういった機会がないと見に行かないので

 

ちょうど残っていた夏休みを消化して見に行った。

 

長篠城址といえばなんといっても「鳥居強右衛門」である。

 

大河では岡崎体育が見事に演じたことで話題になったが、彼には日本版走れメロスという異名もついている。

 

なぜかというと

 

敵に攻められている中で援軍を徳川家康にお願いするべく、意を決して城を抜け出し、新城から岡崎までの距離を駆け抜けていくという現代では考えられないことをやってのけたからである。

 

最後は敵に捕まってしまうが、「助けは来る」と対岸から味方の陣に知らせ、最後は磔の刑で命を落とすという忠誠心に溢れた男である。

 

実際にその歴史の現場を見に行ったのだが、発達した現代でさえ新城は山々に囲まれており、ここから岡崎までを自分の足で向かうなんてこと、気が狂ってもしたくないと感じてしまうことであった。

 

そして特に私が感銘を受けているのが、「往復していること」である。

 

そのまま逃げ出すことももちろんできたと思うし、ましてやきちんと徳川家康のところまで達し、援軍要請までできているのだから、わざわざ危険と苦労をかけてまで新城まで戻ることもしなくても良いのでは?と思ってしまう。

現に道すがらで敵に捕まってしまっているから尚更である。

私なら間違いなくそうするが、そこがかつての人たちのすごいところである。

 

まさに仲間のために自分の命をかけるという、決して比喩的なことではないリアルな行動をやってのけるから、とんでもない時代と思いつつも、感心してしまう。

 

かつての新城にはリアル週刊少年ジャンプの世界が存在していた。

 

終わらない短距離走

ただの愚痴。

 

7月から着任した仕事が忙しすぎる。

 

常に短距離走、なのにいつまでたってもゴールテープが切れない。

 

あいにく仕事柄、会社の端末を立ち上げなくても考えることはできてしまうので、24時間勤務も夢じゃない。

 

主な要因は、一人でこなす仕事量ではないということにある。

 

加えて、右も左も分からない素人の私というゴールデンコンビ、

 

詰みに詰みまくっている。

 

ただ、これで淡々とこなすことに精一杯になっていたらいつまでもこの全力疾走マラソンは終わらないので、うまいことこなすための仕組みを考えねば。

 

30代!働き盛り!頑張ります!

 

<今日仕事で良かったこと>

・打ち合わせで準備した甲斐あって、スムーズな進行ができた

・目上の相手といい意味で臆せずディスカッションすることができた

スマホと生きる現代

中学生の平均スマホ時間が4時間を超えるというニュースを見た。

 

アラサーである私も、気がつけばスマホを見ている。

 

いわゆる ”スマホはもはや俺の臓器” である。

 

そして世の中の風潮としてはスマホ依存への警鐘を鳴らす動きが多いのではないだろうか。

 

確かにスマホを触っていると4時間なんて時間はあっという間に溶けてしまうので、そういった懸念が生まれるのも無理はない。

 

しかし、じゃあ以前の我々がスマホがないからといって高尚な生活ができていたかというとそうではない。

 

結局のところ、何かしらの暇つぶしには費やしていたのだ。

 

おそらく10年前はガラケーを触り倒すことに夢中であっただろうし、もっと小さい頃には漫画、テレビゲーム全盛だったので、その時間に当てていたであろう。

 

そう考えるとむしろ、今のスマホを使ったネットサーフィンや電子書籍を読む暇つぶしの方が人生の役に立ちそうな気がする。

 

と、私の場合はである。

 

これが10年、20年以上前の大人だったらどうだったのだろうか。

 

大の大人が漫画やゲームを皆がこぞってやっていたとは考えにくい。

 

テレビをひたすら見ていたのか、それともより家族で会話をする時間があったのか

 

と考えるとスマホを持ち始めたことで、独り時間の充実とは裏腹に対人とのコミュニケーション時間が欠如していったのかもしれない。

 

そんな私もこうしてひとり自分の部屋でブログを書いていること自体が、まさしくである。

 

これからもスマホとは仲良くしていかねばならない生活だとは思うので、ちょうど良い距離感で付き合っていきたい。

 

 

<今日嬉しかったこと>

仕事において接しやすいと言われた

死ぬまでやりたい

特別お題「わたしがブログを書く理由

大きくは2つの理由がある。

 

まずは、その日頭の中に浮かんだ感動や気づきをきちんと言葉して大切にしたいと思った。

 

そして、そのもしもおんなじタイミングで浮かんだ人がいれば何となく素敵だなと思った。

 

だから、私は死ぬまでブログを続けようと思っている。

 

私の母親が10年日記を書かさずにつけており、もしかしたらそのルーツは遺伝子にあるのかもしれないと、最近は感じる。

 

もちろん日記でもよかったけど、心が沈んでいる時にどうしても日記は自分という閉じた世界の感覚があって、少し寂しさを感じてしまう。

 

その点ブログはたとえ足跡やいいねがつかなくても、開けた世界に自分の言葉を生み出している感じがして、ポジティブな気分になれる。

 

書いてみて思ったのは、ただ変わり映えなく生きていると思っても、その日を丁寧に振り返ると意外にも書くに値するネタはあることである。

 

仕事や家族との何気なく会話、一人でいる時にふと頭に浮かぶこと、

 

気に留めなければ次々と流れてしまうものを、ちゃんと拾ってあげると意外に面白い発見もあるなと感じる。

 

何よりワクワクするのは、まだ毎日書くことを始めたばかりで、これからどんどん溜まっていくブログの投稿が100、200と増えていくことにある種の達成感も感じているからである。

 

とにかく、せっかく見つけた自分のルーティン。

 

生涯かけて続けてみようではないか。